とうとう今日で偉い事になりました。あと八年で魔法使いです。

水中都市・デンドロカカリヤ (新潮文庫)

「水中都市・デンドロカカリヤ」
コモン君がなるデンドロカカリヤとはワダンノキ、(学名:Dendrocacalia crepidifolia)の事らしいです。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/wadan-no-ki.html


安部公房の小説はイメージの産物であり、現実と乖離しておきながら、
それで居てリアリズムに溢れており、なんだか後味の悪い読後感が特徴だと思う。
アイデンティティの喪失と世界の喪失、後味の悪さ。
個人的な感覚ではフィリップ・K・ディックの世界もそれに近い。
もっともそれでも受ける衝撃はそれぞれに違うけれど。


語る、と言うことと、話す、と言うことについてすこし考えた。
自分はお話と物語、とどちらが好きなのか、物語なのだ、と言う事に気が付いたからだ。
言語学者ではないから由来などなにも考えない。だからたぶんに主観的である。
かなり歪曲というよりも極論であるから、読むと時間の大損であることだけは保証する。
以下、適当かつ乱暴そのものの極論。
自分の住む地方では、「かたる」と言う、「参加する」という意味の方言がある。
漢字で書けばどうなるのかなどは調べる気がないから知らない。
話す、と言うのは音だけを取れば、「離す・放す」と同一である。
ここで、物語とお話、と言うものの違いを考えてみる。
完全主観なので辞書は繙いたものの、余り役に立たないと言うか、混乱するだけなのでここではそれを引くことはしない。片手落ちになるが致し方ない。
物語、というのは「ものをかたる」と言う言葉である。
おはなし、というのは「ものをはなす」という言葉である。
では、自分の考える(少なくとも主観的に思う)物語、とは一体なにか。
「もの」「かたる」である。
その世界に感情移入する、と言うことではない。
その世界において、たとえ自分が傍観者であっても、なんらかの関わりを持つこと。
それが「ものがたり」であると思っている。
それに対し、感情移入の有無を抜きにして、単純にその世界で終わってしまうもの、
それが「オハナシ」であると考える。
すなわち、その小説世界に対しての関わり方の違いがあるのだ。
例えばある小説において、読中読後、その世界から一気に飛び出してしまえる、
或いは自らが傍観者ですらない、ただ単純にその世界を賃貸しているだけの居心地の悪さとでも云うか、それがオハナシだと思うのだ。
すなわち、読者である自分が「はなされ」る、のがオハナシだと思う。
ものがたり、と言うのはロールプレイングである。
大なり小なり、その世界に関わって居るという感じを受けるもの。
読中読後、その場所にとどまるもの。そう言うものを物語だと感じている。
自分の中に衝撃を与え、その世界のなかで自分はどうであるのか?
その匂い、空間を感じられる横軸的な広がりをもつもの、それが物語で、縦軸的な、
世界を感じさせ、それが帰結するまでを描いただけでは、
たんなる「オハナシ」でしかない、そう考えている。
ただ、この様な観点はまったくバカげているというのも事実だ。
要するに個人的な世界の話でしかないからだ。


では、今回の水中都市、はどうであろうか。
これは個人的には前述の理由から、物語、であると思う。
世界が喪失し、現実はほころび、水中という非現実が現実を支配する。
その非現実は同僚のデザイナーの描いた世界と酷似している。
その非現実的な現実を受け入れる、或いはずっと前からそうだったように感じている人々のなか、
魚になった父親を持つ主人公は未だ旧い現実を愛し続ける。

「どうしてこんなことになったんだ!」驚いて、はげしく彼の腕をゆすぶり、「なぜ、こんな目に会うんだ。」
「君が現実を愛しているからさ。」不意に親しみをこめて彼は言った。

いったい僕はこの世界でどちら側の人間なのだろう?
リリシズムと自己憐憫の現実なのか、それとも混沌の非現実に身を委ねる側なのか。
だから、これは前述の理由から、物語である。
そして、主人公は最後にはその世界に敗北する。
敗北といえるのかどうかは定かではないが、ある種の敗北であるのは間違いないだろう。

間木がマッチをすってタバコをつけた。驚いて、
「水の中で、タバコが吸えるはずがないじゃないか。」
「吸えないさ、」と彼は言った。「吸えないけれど、吸うんだ。」
おれたちはまたながい間、次第に変わっていく工場の風景を、黙って眺めつづけた。
すると、その風景が変化するにつれて、おれ自身も変化していくような気がした。
(中略)
おれはその風景を理解することに熱中しはじめているのだった。
この悲しみは、おれだけにしか分らない……。