李陵・山月記 (新潮文庫)

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが各人の性情だという。
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠情とが己の凡てだったのだ。

羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てたた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわってみる夢にだよ。
嗤ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。